スーラク健康教室 2018/10/13(土)


本日は感覚、知覚そして認知を身体を通して真面目に遊んだ!

「超ダサダサから本来の普通へ」

 

入力する、処理する、出力すると言うプロセスが、良くも悪くも如何に上手く出来上がって、システム化されているかを改めて、実感された。

人の振り見て我が身を正すとは言われていることではあるが、そこまで錆び付かせ、ダサくも出来るのかと感動した。当然ダサく出来るのだからダサくなくすることも出来るのだが、ダサいのが自分だと習い性になり、自分でも思い込んでいる。

そんな人間というシステムを味わえ、面白かった。

 

それを「認知の心理」の観点から言い直すと、感覚器(受容器)が、折角情報を発信して居ても知覚が閉じておりその情報を受け取らない状態。これを世間では感覚が鈍いというが、場合によっては、感覚受容器あるいその情報を伝える求心路神経系の神経線維そのものあるいは神経と神経の間のシナプスに異常があり、ニューロパチー(糖尿病やビタミン欠乏症)、重症菌無力症などのような病的に感覚麻痺、知覚鈍麻、運動麻痺という場合もあるにはあるが、通常健常の場合は(受容器と発信器としての)感覚器には異常は無い。きちんと常に感覚情報は発信されている。正座での痺れは、人工的な一時的なニューロパチーと言えるでしょう。

 しかし、通常の感覚が鈍いという状態は、その折角の感覚情報を処理する側の脳側の機能の知覚が十分に開いていない。

知覚がその時々のありようにより情報を取捨選択しているが、夢中になっているとかゆいのも痛いのも分からないがふと我に返るとかゆくなったり痛くなったりする普通の状態。現代物質文明都会での日常生活では、それがさらに閉じるように閉じるように生活している。それが習慣化されて、ほとんど閉じてていてもそのことに気付くことさえ出来ない。

 知覚が閉じているからこそ、現在の身体状況、外界の状況がきちんと認知出来ず、その場に即した適正な運動(行動、思考、感情、態度、身体反応等など)が起こらない。適切な運動が起こるに起これない。

そのダサい感覚、知覚のまま、過去の固定した認知を引っ張りだし、現状とは異なる過去を繰り返すのみの誤認知の繰り返し。その誤認知の繰り返しでその当然の不適切なダサい結果をみて、自分を評価し、自己イメージを塗り固めて行く。

 

だが、人間本来の機能はそんなにダサくは無い。結構健やかであり、上手く出来ている。ただ、そのシステムが存在することを知らず、活かさず、活かし続けなければ、やはりダサダサを繰り返すのみで、直ぐに昔のダサい自分を再現する。非常に精度と再現性の高いダサい状態の自分が居る。

 そんなダサダサ状態を普通に戻す遊びだ!

 

で、今の状況、状態に対応出来ない状態から感覚器からきちんと情報を発信してもらい、その情報を的確に知覚し、その知覚を基に過去では無く未来に向けて認知して貰う。

 

そんな遊びを昨日は、うちわを用い、転がって遊んだ。

うちわもはさみも薬も使いよう。うちわ本来の使い方では無かったが、知覚を開くのには大いに役立った。

もちろん、こちらとあちらの身体があればこそのうちわであるが、うちわがモデルとなり、教材となり、道具ともなった。

身近にあったものをたまたま手にしたまでだったが、結構うちわは凄い。

手指の知覚を開き、手首、肘、肩の知覚を開き、躯幹の知覚を開き、腰さらに膝、足首、足裏の知覚を開いて開いていく。

 

さらに、知覚を自分で一人で開く遊びとして、一人ノーズフィンバーテスト遊びをしてもらった。

いやー、ビックリ、余計な思考、ご認識がどれだけ生体本来の機能を邪魔するのか、驚きを越し感動してしまった。えっ! そこまでそうなのと!

でも、余計な思考を止められる状況を作ってあげるとあっという間にダサダサが消失して、自分の感覚、知覚を適正に修正してしまう。

もちろん、知覚が適正になれば、認知も変容するが、それでもさらに面白かったのは、目的無くして、適正な目標も結果も付いてこないことを、みせて貰いなるほどと実感された。

 

目は口ほどにものをいい、目は決してものを見るのでもないこと、未来を見るのが目の役割と思い知られた。未来に向けて目を向ける、目的があると、目標も適切に設定され、そして余計な過去をほっといて身体に任せるとあらら、不思議というか極々当然の結果となり、神経痛だと言っていたガタピシの身体も素直に、柔らかあく、穏やかに動き、痛みを覚える必要も無くなる。

 

いつもながらのSさんが、いつもながらの状態(本日は神経痛が、、、)と言って登場!

それが団扇で遊び、自分の手指で遊び、転がり、身をもって、自分で自分を癒す、そんな一時をあちらも、そして、こちらも感動をもって体験した一時であった。