思っている身体と実際の身体は

一致していますか?


日常生活では、自分の身体は自分で自由に操っていると思っている。

しかし、実際はなかなか自分の身体ながら、思うようには言うことを聞いてくれない。

そんな自分に普段は気付かずに生活しているが、気付くとビックリする。

ビックリするが、決して、それがその人の実力でも、その人自身でもない。

 

私たちは知らず知らずのうちに、何気なく常に頑張り、努力してしまっている。肩肘張り、肩や腰が凝っていても気付けない場合もある。

使い易い所、使うのが得意な部分と、余り使わない部分が次第に差が出来、次第にその差が著しくなります。

利き腕、利き足、利き目も自ずと出来ます。

脚も、両脚均等に使えるようで、かなり左右差がある。太ももの太さ、緊張度合も異なります。

細かい部分はなおさら差があっても分かりづらいというか、気にも掛けません。

知らず知らずに悪循環に陥り、ムラがさらに広がります。

が、伸筋と屈筋が呼応して協調して柔らかく動ければ幸いです。

上図は、模式的に粗く粗雑なムラを表現していますが、それがさらに細かいアンバランス、ムラになって行きます。

肉体の身体部分でも、いつも使っている部分は鍛えられ、より働きやすく使い易くなって行く「磨かれる部分(元気部分)【活性部分】と、その反対に、使われずに働き難くなり「錆び付き(しょんぼり)部分」【廃用部分】とに知らないうちに分かれて行きます。

すなわち、肉体的な身体にも部分部分のムラが生じて行きます。
使えない部分は、次第次第に廃用部分として、筋肉は衰え、感覚も無くなり、使うに使えない状態に陥ってしまいます。
精神的な身体にも、同様に部分部分のムラが生じてしまいます。そして、実際の身体(身)と自分で思っている身体(心)とのムラも生じてしまいます。身と心のかい離、バラバラ事件にも発展して行きます。

それが、ドンドン積み重なり、ムラが広がり、さらに使える部分に負担が掛かり、ますます頑張って使っていき、使えない所は益々使えなくなり、ムラの悪循環が形成されてしまいます。

そのようなムラの悪循環が生じて、進行していても、日常生活が成り立っているうちはよほどの事が無い限り気付かれません。というか下手をしたら無視されます。

しかしながら、そのムラにより、磨かれる活性部分は、無駄な努力と頑張りを強いられる。というかそういう努力の仕方しか出来なくなり。逆にその無駄な努力が努力感、やった感、満足感としてさらに悪循環の原動力ともなります。その部分は当然の結果、無理が重なり、凝り、固まり、歪みを生じ、違和感、痛みという身体の声を発するようになります。
一方、錆び付き、使えない廃用部分は、使いませんので、筋肉も細く脆弱となり、その身体感覚も鈍麻し、益々身体のムラ、歪みに拍車を掛けます。

 

その悪循環が進行し、ある点を超えると、流石に自分自身でもあれっと思うようにはなります。身体は最初からその違和感、不調、歪みは訴えているはずですが、その身体の声に耳を傾けられなくなっている状態では、自分では気づけませんし、下手をすると指摘されても受け入れる事すら出来ない状況に陥ります。

そうすると身体的現状(現実)と勘違いしている身体(思考)との間にもかい離が生じ、違和感となり、さらには、漠然とした不安、心配、自信の喪失となり、さらに身体全体に影響を与えるようになり、やっとその人なりの訴え、不定愁訴となって表出されて来ます。
ただ、レントゲン、CT、MRI、血液検査その他の検査では特に異常が無いといわれ、思い込んでいる自分自身の身体と実際の身体のギャップに悩むようになります。実際に、身体の調子も思わしくなくなります。

 

でも、それでこそ健康です。

 

もし、ここで、心配も不安も無い、ぐっすり眠れて、身体も調子が良い、絶好調と思っていたら、それこそ異常です。不健康です。

 

何か漠然とした心配、不安、不眠、痛い、苦しい、疲れやすい等その他の不定愁訴を抱えて、自律神経失調症だ、肩こりだ、気のせいだと言われている人は幸いです。
とにかく自分自身の身体の声に耳を傾け始めているわけですから。

 

その状況に気付いた方は幸いです。

 

損なわれて機能不全状態の感覚、知覚を活性化させ、認知を適正に戻すことにより、適正なバランスの取れた身体を取り戻すチャンスです。