「学ぶ(学習)」と「勉強」

学ぶを学んで、情報が正しい知識となり、優れたパファーマンスとなる


 与えられた知識、情報の獲得に勉め強いられる「勉強」の時期もあった。

 

 手取、足取り指導を受け、問題を課題に分析し、課題を解放させてもらえる受動的学びの時期もある。

 

 しかし、どんなに巧みに上手に解放に導かれても、その解放のための情報、知識とその手順を自ら考え、実践し、自ら再発見しない限りは、再現性はなくその先の自力での発展性もない。それ止まり。

いわゆる教え方がうまく結果オーライであっても、学ぶ側の受け皿が何を受け取るか次第。

下手をすると教え方が上手いからこそ、それにおんぶに抱っこで、自己が主体となり学ぶと言う学びを学びにくくしているかも知れない。

 

 良い結果のみ味わい喜ぶのか。

教え方が上手かろうが、下手かろうが、結果が失敗であれ、成功であれ、その中で自分で必要な情報知識を選択し、それを活用し、自力で問題から課題を見出し、切り取り、その課題を解放出来る様に、自分自身で自分を錬り、成長させる過程(成長サイクル)が「学ぶ」ことと実感される今日この頃。

 

 同じ問題を出されても、その課題を自分でどう切り取るか?

自分で切り取れるようになってきたら学び(学習)が進んでいる証拠では?

 

 また、自力で一つ問題を解くと、必ず次の問題、課題が見えて来る。

 

 他に依存し、受身で学ぶレベルを卒業してこそ、例え同じ理屈、理論仮説でも、温故知新で自ら選択し、自ら構築した理論仮説を自ら検証出来るようになる。その検証過程では当然Pdca(チェック1,チェック2)を回すが、計画をきちんと計画通り実行したかどうかの現状確認のチェック1が重要である。当たり前過ぎるほど当たり前のことのはずのチェック1だが、チェックしたと思い込んでいる自分、チェック1オッケイと思い込んでいる自分と、実際にはチェック1をクリアーしていない現実の自分の発見、現状認知がしっかりなされないとその先はない。自ら認知出来る様に感覚、知覚を磨き、開かないと。その判断、判定、現状認知を他に委ねている限り新たな学びはない。

 

 最初は指摘されないと分からない。何しろ自分で自分をチェック出来ないのがそれまでの自分のレベルなので。その自分に気付いてこそ、次のステップへつながる。最初は成長の最近接領域(ZPD:Zone of Proximal Development) が提示されないと気づけない。提示されて初めて気づきさらに自らそれを乗り越えていく、解放過程が必要。

 

 失敗こそ成功の元、失敗するからこそ、自分で試行錯誤をし始める。

ただ、教わり、指導され、上手く行ってもその事自身に意味はない。

 

 その失敗であれ、成功であれ、主体的に客観的にそこから何に疑問を持ち、何に気づき、何を拾うか?

 

 自らプロセスを知り、自らプロセスを回せるようになり、初めて気づけて、修正可能となり、成長・向上・発展出来る(成長サイクル)。おお、そうか!

 

 しかし、結局はこれまでの学習要項で学んだ科学的事実、教科書の再確認となり、自然の摂理を自ら初めて解悟するだけのようだが、ただ、そこに至る学ぶと言うことを学ぶことが大事!

 

 そして、自分でその思考プロセス、システムを構築し、繰り返し習塾されていくと新たな思考が実となり身に付き、新たな自分となりパフォーマンスも改善されて来る! (習塾サイクル) さて どうれ?

 

 同じ問題であっても切り出す切り口はその時々でユニークになるしかない。

他と違ってオッケイ、否、違うからこそオッケイ?

しかし、そこから至る結果の理論仮説は自然の摂理に従うしかなく、大概は先人が導いてくれている。

 

 

 勉強して、真似て学び、忘れて、自らの必要に迫られて問題に直面し、課題に対峙して、自ら情報を取捨選択し、現状認知し、未来を認知しそして当座の仮説、プランを認知し、Pdcaを回して、検証し、自ら思考し学ぶ。

 

勉強は受動、学ぶには受動誘導時期と主体的に能動的積極的学びの時期とがある。

 

思考のプロセス(システム思考)を学ぶことが「学ぶことを学ぶ」学習か!