重さから重みへ、そして未来へ

『重「さ」』と『重「み」』からの『つながり関わる』と「未来へのありよう」への一考察


 「重さ」は質量という物理量で一定、「重み」は知覚される感覚量で可変。

 

重さは質量としては軽くても重みとしては重くも知覚できる。一方、重さとしては重い物でも軽く知覚し軽やかに扱うことも出来る。それが意識体としての人間。

 

厚さと厚み、深さと深み、高さと高み、痛さと痛み、苦しさと苦しみ、渋さと渋み等など元々の日本語にも区別はあった。実際のもの(実体)を「身」をもって知覚して「未」来に向けて概念化させた概念を、「さ」を「み」に語尾変化させて表現したものと改めて定義する。広さは広みへ、長さは長みへ!

 

 一体化とはつながり調和し、同期、同調することである。

接触面は一体化すなわち知覚遮断、認知不成立で同化し、それより自分側は、緩み落下し地天人で身体の重さが地球の中心に引かれ、自律的に自立しており、自立しているからこそ地球からの重さの反作用が全身四方八方へ、パーソナルスペースにくまなく光速で行き渡る。それが知覚され意識体となり、重みとして自在に反応応答出来る。

 


 重みはその重さゆえに自然の道筋をたどり流れるのであり、流す必要は無い。感覚受動モードで受容し続け、流れる環境を整え支持し続け、その自然の結果を自分に保証し、地球とコミュニケーションを続ければ無用な努力は必要なくなる。

また、そのパーソナルスペースは、その能力と共に拡げることも可能。

 

 その知覚を認知しキープし、その認知を自在に変容させて意識を操る練習が必要!

 

すなわち『重さ』という具象を、抽象化し、『重み』という時空間での抽象概念に引き揚げ、その後、具象化し具象としての『重さ』を対象との関係性、TPOでパーソナルスペースで自由自在に活用することが重さの力を発揮することである。


肉体としての身体に対して直接命令、指示し調整するのではなく、思考機能の頭の認知の変容させた結果、身体の運動機能が自動的に自律的に働き出し、対象に依存せず協調して自立し仕事をするすなわち協働することになる。

 

 その瞬間の今は有っても、人間が知覚認知した今はもう既に過去。

まだ来ない、まだ実現していない未来を思考することしか未来はない。未来を思考するとは妄想することで有る。ただし、病的妄想と異なるのはまだ見ぬ未来のある一時点のある理想的一事象の状態(ありよう)を思い描くことである。
青春とは妄想のたくましい時期であり、人は妄想とともに育ち衰え朽ちる。

 

 また、自分からわざわざエネルギーを捻出し、無駄にロスする必要は無い。
相手・対象が、地球が、自然がそのエネルギーも方向性も与えてくれ、教え、導いてくれる。ただ、その自然の教え、流れ、導き、タイミングを素直に受け入れ、支持し続け、自分に保証し続けられる自分であり続けられるかが分かれ道?!

 今という過去の自分と現状をきちんと認知し、まだ来ない、存在しない未来の状況、状態の目的を認知し、そして、人間として出来ることをきちんと学び、その英知と智恵から行動目標を立てる。それを実行し、確認し、修正、取捨選択するその循環を繰り返し試行修正し未来を実現する。それが趣味であり、仕事であり、日常であり、未来を拓く人生か?!

 

ある具象から、抽象化させた抽象概念で、目的認知し、智恵、英知を働かせ目標認知し、抽象から具象に具象化させ、TPOと環境に合わせて活用する。