手の内、身の内、自然体

〜 不精者の最新 身体のありよう:シンプル イズ ベスト 〜


 何事も根気が無く、面倒くさがり屋でも、なるほどと納得というか、納得せざるを得なかった身体の「ありよう」認知。

これまでは、とにかく、色々学び、こうして、ああして、そしてさらにこうしなければならないという付け足しの頑張りの学習、学び、勉強をして来て、さっぱりその学びが身体に反映されない運動モードからなかなか抜け出せずに来た。

 しかしここに至り、これまで学んで来た事の意味がシンプルに実感され、体感され、これまでは特別なこと、特殊なことと思われていた学習事項が何にも特殊なことでは無く、当たり前の事であり、あれもこれもでは無く、ただ、それだけになった。

もちろん、その観点、切り口、立ち場から見え方、断面、表現・言い方は違っても自然体の構造と機能を包含したありようはひとつであり、それが自然体なんだろうなと。

 する事をしない。すなわち身体にあれこれ命令、指示をしない。あるがままの現状を受け入れ、その環境下に存在するエネルギーリソースを有り難く遠慮無く頂き、分け合えば良いだけ。相手と地球とで。自分はあるようで無い。いるようでいない。が、主体として存在し、現状環境を承認・受容し、媒体として役割を果たす。そして、その当然の結果を見守り、甘受する。

 結果として、これまでの努力感、力感、頑張り、使命感、責任感などは全く無用であり、かえって邪魔!

だって、なるようになってしまうから。これまで生きてきた現実がまるで嘘のような新たな現実が出現する。

氣楽な思いで、何気無く(余計な氣を使わない、下手な考えをしないからこそ)、あらら、これまでからしたら起こるはずのない、不思議なことが、いとも簡単に起こる。

 これまで学んで来た事で言えば、もちろん重さの力であり、哺乳類の歩きであり、触感123であり、触感イニシアティブであり、認知不成立で有り、円の原理であり、ピタゴラスで有り、紡ぎであり、インナーライン・クロスライン、シムラー、エキスプレスでもあるだろう。

でも、そうなるしか無くなるありようとなる。

 その気付くきっかけとなったのは「手の内」という切り口。

手の内ということに関しても、これまでも武道、武術関連で耳にしてきた言葉であったが、あまり意味を考える事も無く、重きも置いてこなかった。だが、身体と向き合っていると、その手の内ということを意識すると身体のありようが変わる事を実感するに至った。

結果として陰陽が区別されその機能が発揮されてくること。面倒臭くは手根骨を意識し、拡げる。手掌腱膜を張る張らない、掌の意識と手の甲の意識の分離とか指の先に意識を集めるなど色々とその方法、イメージはあるようだ。

それで、その手という局所の部分をどうこうしようとするが、それではどうもこうもうまく行かない。結局は部分ではない。全体調和しての部分であり、手であり、指先その本来の機能も発揮されてくる。

ゆえに、手の内と言っても問題は手の内ではない。手の内は結果、問題は身の内であり、結局は身体のありようだ!

身体が整い、初めてそれで手の内の工夫も役立ち、感覚も変わり、知覚認知も変わり、行動も変わり、その結果もこれまでが嘘のような結果となる。これまでの思い込みで使ってきた身体の使い方が結局180度変わらざるを得ないというか。これまで努力し、頑張ってきた、そんな無理、無駄、無体なことをする必要は無いことに愕然とする。

 余りにもシンプルで簡単すぎるというか、ほとんど肉体の身体は何もしない。させない。認知思考し、身体に任せ、氣楽に思考するのみ。身体は遊ばせておく感じ。仕事させる、仕事をするイメージとは程遠い。真反対。

手の内ということで、手でも三次元で、間合も色々で遊んで居て、手首の解放さえ出来ていれば良いことが体感を通して分かってくると、手首もさることながら肩肘の力む必要性が雲散霧消に消失する。そして、身体がこれまでの頑張り姿勢から任せる身体のありようになる。そうするとますます手の内が発揮されてくるというか、勝手にそうなる。もちろん、それなりの細かい接触部の余計な刺激、仕事を減らすと言うことはさらに出来る事ではあるが、それは付け足しであり、おまけでしかない。基本的には手の内の身体のありようが整えば、お終い。

 おお、なるほど、手の内は、掌と手首の状態と全身との関係性かと気付けば、では、足首はとなる。で、足に対しても手と同様に足の内をイメージ、体感、実感させて、DVDでしか見たこともない、柔道の足技、システマでやってもやっても硬直失敗しか出来なかったことも、あら不思議、不思議と思う方が不思議な程、簡単に何事も無く実現出来てしまった。柔道の足払い、大外刈りなども。蹴ってきた相手の足を足で払うなども、これまでが嘘のようにあれれ、あららとなってしまう。 

うわー、こりゃ、たまらん。今まで居着く練習、下手になる練習をしていた。

それも一生懸命。システマでも最初からその根本的四原則はずっと言われ続け教え続けられてはいた。姿勢、呼吸、リラックス、動き続ける。そしてカームと。言葉は理解し、課題も理解し練習していたつもりであったが、教えに逆らい下手になる練習をしていた。さらには西野流呼吸法でも、結局は同じ、対気をする際も結局は同じ、ありようさえ出来ていれば触れたエネルギーをもらい方向付けをし和けっこをするだけで、相手が飛ぶ舞うのは当たり前だった。

うわー、今まで何をやってきたんだと、全くもって慚愧に堪えない思いに駆られた。また、普段どれだけ自分に、周囲に、緊張、圧迫、ストレスをかけてきたのかと今更ながらに思い知った。

 でも、そう思ったら、身体の首という首に関しても手の内感覚を移植していけば結局は、やることは1つとなる。

自分自身の身体のありようを準備し整えるために、自分の身体に対する思考認知を変容させるだけ。その準備さえ整え終わっておけば後は和けっこする方向指示器を出すだけ。それも指先、小手先でほんのちょっと。

手首、足首の他にも、首には元々の首の頭首あり、腕首あり、股首あり。さらに命名したら色々な関節首が出てくる。

それを全て意識でき、活用出来たら凄いが、でも、凄いのはたったひとつの手の内から身体の内という認識に至れば、、そんなに面倒なことを考えることもやる必要も無い。もちろん種々の内を増やして行けたらそれに越したことは無いが。

手の内、足の内だけでもこれまでが天地をひっくり返した感じなる。

 首がありつながっているからこその頭と身体であるが、まずは頭という主体機能と身体という実体とを切り離す必要があり、さらに手の内、足の内という事からそれが実現しやすくなる。その結果楽に物事を捉えられ、対応出来やすくなりさらなる良循環となる。

手の内、身の内に納めておけば、普段の生活、仕事においても、身からをサビが出ることは無く、あらゆるものをエネルギー源、原動力として活用出来るようになってしまうことが予測される。

 自然体というのは首という首が切れており、切れているからこそそれぞれがそれぞれに自立して自由にその働きが働く状態となる。

自然体を呼び覚ますきっかけとしては手の内、身の内は大いに助けとなる。そして、その状態となれば、物理学の原理も、人間特有の医学的、武術的原理も発揮されやすくなり、発揮されてしまう。

 

 「手の内」から「身の内」そして[自然体」のありようについて、その本質からその当然の結果のありよう、状況を上図に示した。

 まずは、大原則、首が固まっていず、「切れていること」、「抜けていること」すなわち居着かず自由に動けることが本質である。その結果として色々な状態がおまけとして付いてくるし、これまで困難と思っていた事、状態が実現しやすくなる。そして、身体に関する認識も、その全過程の感覚、知覚も変わる。首より内側、中心が内であり、身の内である。

 膝も肘も、重さも、思いも身の内にある限りはリソースとして役立つが、身の外に出てしますと刺激になり、信号になり、自分のバランスを崩し、要らぬ緊張、力みを生み、ブレーキになり、サビの元となり、錆びてしまう。失敗の原因になってしまう。

 自らの身体を通して身の内と外を感覚、知覚し、認知し車幅感覚を正確に維持する必要がある。

 また、身の内も固形物、剛体という認識も出来、その元に応用も可能であるが、それ以上に液相、氣相という流体という認識も可能であり、それも淀み渦巻く流体では無く整流された清流で均質な流体と認識も可能であり、循環するとも認知出来る。もちろん、伝導、対流、放射という認知も可能である。指先一つにしても放出、放射する事も、対向流とする事も出来る。

 さらに重心は浮沈子の様に周りの状況・環境により浮き沈みし吹き流れる事も出来るし、アンカー、ジャイロのように静止固定も出来る。また、全体の釣合により力点にも、作用点にもなれるし、支点も自由に設定出来る。また、パスカルの原理もサイフォンの原理も働かせることが出来る。

作用には人は反応するが反作用には人は反応せず受け入れてくれる。接触は大事だが接触に拘泥し、接触により認知不成立ともなる。認知思考した結果の意識体ともなり、身体とのバランスも取るようになる。

 人との縁、つながりを元に作用でも、反作用でも、求心力とその直交方向への意識力は自由に設定出来る。手も器用な部分だけにフレミングの法則も左右ある。

いずれにせよ、一方的な圧勝はない、ウインウインの和けっこが出来て初めてロケットも飛ぶ。ロケットが飛ぶためにも、作用する圧噴射があればこそ、その反作用の反動でなるようになる。

世の中持ちつ持たれつ、お互い様の釣合・バランス様、調和で成り立っている。和を真に実現したらなるようになる。

 2021/10/16時点での身体のありようであり、これまで植え付けられてきた固定観念の身体観からの脱出過程とその状態である。