意識(空間)体と意識ライン は

肚から伸縮自由自在


 意識体という概念にたどり着いた経過と概念に関しては既に、「意識体」に記載した。

そこに至るためには、たくみの会の運動方程式から始まり、「浮きと調和の身体運動理論」、触感123,触感イニシアティブ、認知の心理学・フィジカルメカニズム(感覚、知覚、認知、行動)、未来感覚循環、超越心理(3面の自分)、知覚を操る(認知不成立)、そして、「武術たくみの会 一の刻」等人間に関して学び自分の知覚を開き、さらに豊和会で身に染み込ませて来た結果、自分の身を介して思考シフトされた。

 思いひとつで身体のありようが浮き身に変わる、すなわち、転がれる身体、ゆらぎのある身体、頂き、享受するありよう、意識(空間)体ということが、同じ状態であると統合されて来た。それまでは別々のこととして捉えようとしてきて、別のものと思っていたが、すべて「からだのありよう」1つに集約される。

 接触と意識とは切っても切れないことは触感123,触感イニシアティブでもそして知覚123でも認知せざるを得ないことではあったが、身体のバランスと意識の濃い薄いもこれまでは何か別のこととしていた。さらに同じように接触部不変、フロムセンター、風の歩きよう、ほ乳類のありようなども別物としてきたが、いずれも重さの力を発揮されてしまう本来のありよう実現のために各切り口から言っているだけのこと。また、3面の自分も実体の自分と、主体の自分と、客体の自分ともそれぞれ分けすぎて来ていた。概念としては分けられるが、本来たった一人の自分の3面というだけで有り、一人であり、統一体が自分。

 認知(思考)さえすれば、あとは身体が自律的に自立して働いてくれると言うことも情報を得て頭では理解したと思いつつも、常に身体の理解とかい離していて、芯から信じられず、疑心暗鬼で無理矢理思い込もうとし、思い込ませ、そしてどうしても頭で身体に命令し、号令をかけて来た。

が、やっと自分の人間のシステムを信じ、運動ゾーンから認知ゾーンへシフト出来、身体感覚、知覚、認知を素直に信頼出来る自分になってきたようだ。

 やはり、感覚、知覚、認知、思考して、後は身体に任せるだけ。悩む必要は無い。悩むだけ無駄。ブレーキであり、ストレスの元、健やかさを損なう元凶。

 意識ラインは、肚(丹田)から自分の手の接触部分にも、その他の身体にも、さらに空間にも設定することは出来るが、それは一次元。それが出来るのであれば、二次元、さらに三次元の空間にも広げられる。余計なことをしようとせず、崩され転がれる身体で、受け入れ、頂き、享受し、相手を労わり思いやれば、思いという意識は存在し、流れ、広がり、充満し、伸縮自由自在となる。

 つながる、つながらないでもない。 触れてから何かするしないでもない。

そう思うか思わないか。認知するかしないか!

そうかと受け止め認めるだけ!

小手先、口先は止め、肚と肚で、もしもしするだけ。

認知と認知、思いと思いのコミュニケーション。

ありようがシンクロするだけ。肚と肚が統合されるそのありよう。

直接身体が触れる触れないも大事は大事だが、空間接触もすでにしている。磁場(磁界)、重力場、その場は共有出来るし、無視、拒否、拒絶も出来る。場を、凍らせ固めることも、温め緩めることも出来る。ありよう。思いひとつで意識体は変幻自在。伸縮、凝集拡散、変幻自由自在。

円、楕円、球。ツルツルでも、ゆらゆらでも、ゴツンゴツンでも。

 

 地球上では、重力は常に働いている。磁界も常に働いている。人間社会でも人間関係、現場は常にある。

 人間にも中心近くに芯があり、その芯を真に信じ、その芯の信に応える。

芯を思い、芯に心配りし、自分のその芯を大事にする。

自分の芯のみでその芯は芯たり得ない。芯と芯とがつながり初めて芯たり得る。信のない芯もあり得ない。

 

 また、肚は球体と意識した方が自在に操りやすいようだ。すなわち手先口先より丹田の浮き球とイメージした方が操作しやすく効率も良いようだ!

それがゆらいだらゆらぎ玉か?!

 

自尊すなわち他尊。自損すなわち他損。

自主自立自尊は、他尊場環境受容享受共生共存!

意識(空間)体とはすなわちありようそのもの!

 

人との関係でのイメージを図示すると下記の通り。

相手が背が低かろうが、高かろうが、肚をそのまま球体としてイメージして前後、左右、上下にも特に意識を偏らせず広がるだけ。