流動方程式

f(g1,g2 , c , b)  =  G+f(g2 , s , f)


 我々人間はロボットではない。意識があり、心がある。

が、しかし、意識、心があるとは言うもののその実体は? 

そのあるようでつかみ所のない物を研究し、科学しようという試みの中で、心理学は発達し、精神医学も、近年は脳科学の発展が目覚ましく従来の心理、精神医学も、より科学的になってきているか?

 

 しかし、その中で、行動、動作のみを捉えて、人間の行動を研究、科学する一領域として行動分析(ABC理論)があり、さらに人間の精神活動の基本を支える認知システムも考え出され、その両者を合わせて、認知行動と呼び、治療として認知行動療法という分野がある。

 医学・科学の分野で、私もこれまで自分を含め人間に対峙してきて、人間は摩訶不思議で面倒な上、いわゆる病気(疾病、病、精神および身体疾患)を抱えた人と関わることは非常に大変であり、出来たら他の人間には極力関わりたくないという強い願望、信念を持つ一方、やはり、その人間の不思議さ、凄さ、面白さに興味をもって、医学から武術関連をうろつき、たくみの会と豊和会という元々は武術関連から出発した人間研究の会、人間遊びの会と縁を得て、たくみの会で学んだ事を自分なりに咀嚼し吸収し、学ぼうと思ってやって来た。

 

 余計な理論理屈などなくても、知らぬが仏で、ミラーニューロンで、あっという間に出来てしまう事もあるが、その再現性、精度はというと、とてもそんなレベルものではない。

かえって、自分の体(フィジカル)なのに、自分では思い通りにならない、人に操縦され翻弄されてしまう現実に直面し、自分って自分なんだろうかと悩んだこともあった。

 

 そして、奇しくも心臓喘息という急性心不全状態を体験し、如何に普段普通にしている呼吸が大事か身をもって実感すると共に、力も、水も、食べ物も如何に必要以上に力み、過剰に取り込んでいるかを実感する事が出来た。

 

 心臓の拍動も普通は自動的に脈打ち、きちんと体全体に酸素を送り届けてくれている。しかし、その心臓の拍動さえ、下手をすると余計に早鐘をならし、さらに自分の首を絞める自分が居ることも味わえた。感覚、知覚し、それなりの認知をすると恐怖、不安もドンドン増幅させられること、その極に達してパニックにもなれるのが、人間であることを我が身をもって学べた。それも人間だが、その認知を適切にかえるだけで、早鐘を落ち着かせることも可能であるのも人間。

 

 苦しい、苦悶状態を味わったからこそ、それを自分で把握し、多少なりとも軽減する対処が出来たからこそ、酸素も力も水も食べ物も何事も程ほどということがどれだけ大事か分かり、その大事な物を普段どれだけ無駄にして来たのか大いに実感された。

 

 その体験、経験を積むとこれまでなかなか困難で実現が難しいと思っていた事に対して、あきらめがつきというか何が何でも必要なもの以外にはこだわり、無駄使いは失せ、これまで無駄な努力をして来た事も見え、その無駄を中止し、その中止を継続も可能となってきたようだ。すなわち、先に書いた諦念力、克己力、維持力の3力を改めて実感する事となった。

 

 そのお掛けでこれまでシンプルだが奥が深く難攻不落だと思えていた不思議な方程式、「たくみの運動方程式」も自分なりにシンプルに新たに浮かび上がってきた。

これまでのいくつかの疑問も自ずと解放されて来た。

たくみの会で学んだ事ではあるが、私(福井)の現在の独自の感覚と知覚そして認知の結果として上記の流動方程式となった。

 

 昨日、スーラク健康教室でそれを元に基本を学び直す、全体を見直し、基本の基本を身に染み込ませ新たな自分を開くという目的を達成するための目標にし、これまでにない成果を得たことを元にさらにブラッシュアップしたのがこの「流動方程式」という私なりの仮説である。

また、個々の具体的な事からは出発しているが、それを抽象化、概念化、方程式化するという作業により、やっとノーハーではなく、コンセプト、情報知識の域に達してきたかと自負している。

 

重力質量=G1 慣性質量G2 重力加速度=g1 慣性加速度=g2 m=重さ α=加速度

コミュニケーション力=c ありよう力=b     how to be

s=感覚(sense) f=柔軟性(flexibility)

G=G1=G2


 

 これまでは、重さの力は重さの力、ニュートンの運動三運動法則はそれはそれと思っていたが、何のことはないニュートンの運動法則が3つではなく1つに融合された物が重さの力で有り、ニュートンの運動法則は3つあるが、決してそれらが別々、バラバラではない。状態により相互に移行し、かつ常に成り立つ式から成り立っている一つの法則で有り、その法則の元、動きが生まれ、流れが生じてしまう。

実に当たり前の事であり、普段どれだけ努力して自然の法則から外れることをしまくっていたのかが実感される。そうなれば、その不自然な事を止め、これまでの積み重ねてきた過去の自分がむくむくと首をもたげてくるのも押さえられ、節を作る必要も無いことも了承され、体は体に任せると言う状態の持続性も維持出来る様になり、維持力も自ずと発揮されてくる。頭で体に号令しようとする、意図、努力、運動という呪縛からもやっと解放可能となってきた。

 

 三要素の中で、頭の整理に役だったのは、ニュートンの運動法則であり、改めてニュートンに尊敬の念が湧いてしまった。今回、今更ながらも自分でやっと気付いたのは、この三法則は重力についての法則ではないと言うこと。もっと正確に言うと重力質量に関しての法則ではなく、慣性質量即ち慣性力G2=F=m・αについての法則で有り、我々人間にも重さの力G=G1は、寝てても起きてても何をどのようにしていても、固まっていようがリラックスしていようが、常に相互の体に、万物に、作用している万有引力Gであるということ。リンゴと同じく、木がその実を支えるのを止めたらただただ重力加速度gで落ちるのみ。

落ちるのに何の努力も必要は無い。

ゆえに、当初はf(g1,g2,c,b)と書いたが、g1=9.8m/s^2は変数では無くG1=Gという定数である。ただ、その定数が働かないように我々人間もリンゴの木の実を支える木の役割を普段必要以上にしてしまっている。そういう点では変数として扱うしかないレベルも確かにある。

 

 問題はリンゴの木から実を切り離すこと、切り離したら、余計な鉛直方向の力は必要無く、重力加速度gが作用してしまう。あるいは自分でデザインした方向と加速度を設定する。何もデザインしなければ、鉛直方向に重力加速度が働く。ゆえに、重さの力を活用するためには何かをするのではなく、余計な何かを省く練習と稽古が必要である。その重力G1=Gを常に解放して活かすことが出来る人間のレベルでは、関数g1ではなく、定数G1となる。

 そして、さらに、落ちる時には初速度は0であり、次第に二次関数(放物線)で加速して行く。

必ず初期の初速度0の平穏、平安、安心の瞬間がない限り、始まりもないし、決して終わりも来ない。このうごめかない平穏、静止の一瞬を知覚、認知し味わえる。下手な人間の内はそんな事は露も感じず、固まり固着するか、不穏にうごめき続けている。固着し不穏にうごめいている限り、自分自身が柔軟な自然な動きは不可能で有り、かつ相手にも緊張と不安を与え、相手の自律性を認め引き出すことは出来ない。

急ハンドル、急発進、急ブレーキは事故の元で有り、不自然の極まり、節を作り流れを止める最悪の要因である。何かをやろう、しようは無用な節作り。

 

 動かない物は動かない。動く物が動く条件が整えば自ら動く。

確かに質量がある物は、水平方向に関してはその質量分の慣性質量が働き、力F1=m・αが加わりその慣性力G2を越えない限りは決して水平方向には動かない。即ち、F1=m・α>慣性力G2の力が働いて初めて動き始める。そして、動き始めるまではその作用する力F1に対して、その物体に力を加える側に反対にF2の力が働く。F1=F2であり、反作用F2は慣性力を打ち破るまでは必ず作用する。

反作用=F2<=G2

そこまでは、自然科学の法則である。

 

 が、人間、面白いのは、人間には人間なりの法則、限度、限界、決まりがあると言うこと。

確かに医学部で学ぶ人間の知識、情報もあるが、もっともっと基本的な人間行動、活動についての知識、原理がたくみの会では研究されている。その大本がたくみの運動方程式で有り、さらに「認知の心理学」(認知心理学:医学分野の理論とは異なる、独自の視点と観点を持つ人間の基本に関する理論仮説,、知覚遮断、知覚不統合による認知不成立)に基づき、フィジカル大事典、tafトレーニングメソード、超越心理学、触感123,触感イニシアティブ、ピタゴラス、Nの震撼、シムラー、円の原理の基礎的理論仮説から今旬のイチインチタッチ、陽炎、ゆら気玉などの人間マジックまで発展して行く。一見不思議だが、ちゃんと種も仕掛けも、理論理屈と準備、場作り、段取りはある。

 

 そして、「たくみの会の動きの方程式」から浮かび上がってきたこの流動方程式でもそうだが、「動き」とは一体誰の何の動きなのかということ。

それまでは、「自分の動きで、相手を動かす」と勘違いし、そのための自分の体を制御する方法手段であると勘違いし、その勘違い実現のための自分基準、相手基準としか考えられなかった。

感覚、知覚、認知の5つの場合分け(相互の内観、外観、空間認知)も理解したつもりで理解出来ていなかったこと、特に「返事知覚の知覚」は知覚出来ずにいたが、やっと気づけて来たようだ。

目的を設定し、その目標を実現するための仮説と実践には、自分に対しては自分基準、相手に対しては相手基準のクリアーする条件はある。即ち、目的達成のためには、自分には自分の目標基準が、そして相手には相手でクリアしなければならない目標基準が自ずと生じる。相手基準を満たす事が出来る自分基準であれば、自分基準のみで実現可能なこともあるが、より複雑なそれなりの目的にはやはり相手の現在のありようの現状認知から自分の現状認知を含め、やはり相互の基準をクリアーする必要が出てくる。

 

 自分基準としては、雨粒が落ちてきたら傘を差す。相手が動いたら道を譲る。など、自分が100%出来る事。相手基準は雨雲の湿度がある一定以上になったら雨粒となるしかない状況なら雨よ降るなと言っても、雨は降る。逆にその条件を満たさない限りは雨乞いをしても雨は降らない。

相手の現状をきちんと認知し、自他の条件を整えないと挨拶も返ってこない。素直に相手を認め、受け入れないと!

即ち、[相手知覚の知覚」と「返事知覚の知覚」との知覚も知覚出来るように知覚を開く必要はある。

 

 

 その結果、「動く者が動く環境、条件が整えば、自ら動く」。

自律的に、自動的に、その動くべき者(物)自ら動くからついて行き、見守り、手伝うのみ。

自分は相手を動かさない。相手が自ら動き自ら慣性力を打ち破る力を自ら発揮する場をデザインし、場を提供する。

自分が塞いで、邪魔していた部分を、解放し、相手に譲り、相手に自由に動いてもらう。

 

 するのではない、余計なことをしていたことに気づき、相手を尊重し、解放し、余計なことを止め続け、主導権を本来の相手に譲るだけ。

自分も多少は動くが、方程式の動きは決して自分の動きだけのことではない。もちろん自分の動きに関してはもちろんそうだが、相手が居る時の動きとは相手の自律的な自主的な動きのことである。相手を崩すのではない、自分が相手を崩れないようにしているのを止め、相手が安心して自ら崩れられるように場を準備し、提供するだけ。場を提供したら後は動いて何かをするのは相手である。こちらは見守るのみ。それで動きが流れとなる。流れない動きは直ぐにガス欠、エンストを起こす。流そうとする必要は無い、自分と相手の条件が整えば、動き始め流れる。

 

 始まる時には終わっており、後は見守るのみだが、その後も放り捨てずに、最後までフォローしておまけで多少付け足す程度。

崩れる場を提供し、安心、安全を担保し、健やかに癒える場を提供する。

余計な心配、不安、努力、頑張りを払拭し、自分自身に信頼を取り戻し安心と健やかさを取り戻す癒やしのシステムが「流動の方程式」(たくみの会の運動方程式)であると考える。

 

        諦めて 重さの力 流動す