楽習とは?

・  指月の月を見て、受け皿を柔軟にし、同じ土俵に自ら立つ  ・


 人間の行動原理の基本は、「認知の心理学」で述べられている通り、感覚、知覚、認知、そして行動である。そして、結果をいくらいじっても致し方ないことも、衝撃を受け理解するまで時間は掛かったが、今はなるほどその通りの自明の理である。

 

 

 運動という結果、

    態度という結果、

      感情という結果、

        心理状態という結果、

         意識という結果

 そして、

    知覚、認知、という結果

も同である。

 

  即ち、

 知覚は感覚の結果!

 認知は知覚の結果!

 行動は認知の結果!

である。

 

 それゆえ、いくら素晴らしい知覚を開く運動、トレーニングを繰り返しても、その時の一時的な結果でしかないことは、自明の理である。

しかし、自明の理と思いながらも、言いながらも、真にその認知が変わらない限りは、その自明の理も少し矛先が変わるとすぐ不明瞭になる、不明瞭にする自分がいる。

その運動モードのトレーニングを、方法を、有り難がり勘違いを繰り返す。成長、向上、進歩はなかなかしない。思考がすぐ停止し、方法と結果に再び取り付かれることを繰り返す。

 

 トレーニングその他の何らかの方法による新たな体験、経験、感覚、知覚、そして、認知は大事だ!しかしながら、そこで、何を見るのか?! 何を捕まえるのか?!

 

 指月の教えの通り、月を指す指を見るか、本質としての月を見てその本質の基本原理を身をもって認知し感覚からの知覚を、知覚からの認知を修正し直せるか! 真に学ぶか!  [成長サイクル]

 

 自然現象の本質的原理を知り、その自然現象を起こす環境状況を自ら設計し設定しある期間保持できる様に認知の記憶、知識を真に理解し信じ切り、認知の変容、思考シフトが起こるかどうか?!

そしてその思考シフトした認知を固定化し、定着できるかが、問題である。  [習熟サイクル]

 

 そのための思考の道順、思路の整理整頓が必要であり、具象からと抽象への抽象化と抽象から具象への具象化を内在したシステム思考が必要となる。

 

 その本質的なことを人にこれでもかと教えられても、その運動、方法、やり方に目が行き覚えても致し方ない。しかしその致し方ないこと、痛いことを自分で脅迫観念的に繰り返している。その繰り返していることにさえ気づけない。それが学習と固定観念化されている。固定化されビクともしない頑丈な受け皿そのものありようを変えない限りは無理だが、見えない、気づけない。 残念ながら!

 

 人に強いられ、自分に強いる学びは、勉強学習で強迫観念、固定観念を生み出すだけ!

自分自身の受け皿を広く深く自在に楽にすっと変えられる学びが、楽に楽しくなる認知楽習なんだと自分で名づけておきながら、今更ながらなるほどと合点した。 

 

 その認知が修正され、頭がシフトしてこそ、これまで気づけず、知覚出来なかった微細繊細な変化も知覚されようになり、大事なこと、重要なこと、本質的なことも認知可能となり、見える世界も変わる。 見えていたものが次元が変わって見えて来る。自分のこれまでの思い違い、勘違いもやっと認知するようになる。

あとは成長サイクルから習熟サイクルを回せるように習練は必要だ!

 

 しかし、そうなると自分としては自明の当たり前の事として言っていることが、受け皿が違う人には届かなくなり、ボタンの掛け違い、認知のギャップも生じ、共通理解していると思っていることが共有されておらず、寂しい思いをしたり、下手をすると言った言わないの水掛け論にもなりかねない。さらに、犬養毅首相のように、「話せば分かる」といって死なざるをえなくなる場合もある。

 

 話しても伝わらない、分からないという思考シフトをしないと危ないが、それでも疎通を図るためには話すという通信手段は大事であることに間違いはない。そのためにも基本的認識、前提条件を整えて、受け皿を出来るだけ揃え、同じ土俵で角力を取る必要がある。

 伝えたいことを楽習して貰うためには、最初はいかに土俵を整備し、同じ土俵に上がってもらうかであり、最初は土俵を造り登って貰う必要があるが、次第に土俵を自分で理解し、自分で造り、自分で登って貰えるように手伝う事が出来ることなんだ。身をもっての体験を通しての土俵造り、土俵に登り、それで初めて互角の角力が取れる。なるほど!

                                                2021/11/13(土)