”重さ”と”重み”と意識体


● 意識で身体は動く:観念運動

 

 手先、末端を機械的に動かす必要は無い。意識が動けばその運動エネルギーは流れ意識を通して手先も動く(観念運動)。ロボットに命令して動かすのとは異なる。

実存の物理的物体としての身体から見ると、重さの意識(重み)を通しての間接的動きとなる。が、実は、意識が働くから動いているように見えなくても動いて力を発揮出来る身体意識の直接作用が本来の身体のありようで有り、動きである。動きとは意識の流れである。即ち気のない動きと気を入れての動きの違い。何気ない普通の動きが気(意志氣)がそれなりに通った本来の動き。

 

● ”重さ”と”重み”の区別 身体と意志氣体

 ”重さ” は物理的質量で実存の量、 ”重み” は主観的感覚による概念であり意識である。

ただし、端なる概念では無く、きちんと感覚、知覚、認知を通した体感、実感出来る意識が”意志氣”であり、”み” である。この単なる概念ではない意識を意志氣と呼ぶことにする。文脈の中で分かる場合は意識でも良いし、それなりの表現出来る場合はそれでよい。が、結構昔から日本語は区別していたのではないか。逆に ”痛さ” という客観的物理量は本来は無いが、“痛み” という意志氣に対する物理量を想定すると“痛さ”があると考える。

以下同様に

厚さー厚み、濃さー濃み、薄さー薄み、長さー長み、圧ー圧み、広さー広み

時間ー時間感覚、遠さー遠み、深さー深み、狭さー狭み、

方向ー方向(感覚)、強さー強み、温かさー温かみ、甘さー甘み等と定義する。

そして、その組み合わせによるあるまとまった空間認知を意識体と定義する。

意識球体、意識立方体さらには意識温熱球体、浮き身など。色々な意識体を認知出来る。

 

 

 和真認知学習塾福井の仮説

 人間(動物)においては、この物質物理的実存の身体と意識(意志氣)体とは釣り合い、調和する統合体であり、調和してこそ健やかに滑らかに楽に動く。一時的にはバランスを崩してもバランスを保とうとする調和体である。斥力にしろ引力にしろ、作用すれば反作用があり、調和・安定を保とうとする。

 

 

 良くある居着きの元、アンバランスの元は、身体の一部分例えば手に命令して何かやろうとすることであり、部分と局所の目的に意識が濃くなり視線もそこに行き、無意識に身体のバランスを崩してしまって、頑張り、力めば力むほど歪み、固まり、上手く行かないということが良くある。

 

 実存の身体と身体意識(意志氣体)は釣り合える。釣り合うし、重なり合うことも出来るし、バランスを崩すことも出来る。

一体化も膨張も縮小もかい離も離脱も可能。収縮させ球体とすれば丹田あるいは肚として認知も出来、拡張すれば、身体の形をした膨張した意識体とも、相手を包含可能な上図の意識(温熱浮き)球体ともなる。

ゆえに幽体離脱するという感じで、一体化した状態から遊離し分離③させることも出来る。分離過程を経てゆっくりも分離も出来るし、瞬時に分離移動した様に分割も出来る。伸縮拡張収縮も自在。その移動過程も直線、曲線、波、渦巻いてなど自由自在。何しろ意識という感覚、知覚、認知という思考作用の結果だから。

 浮き身①の状態だと意識によるアンバランスから身体をバランスさせ、相手に知覚を与えない力となり動きとなる②。

 ただ、感覚、知覚、認知がきちんと伴い自在に変化可能かはその人それぞれのレベルがある。知覚を開き、認知を磨き、感覚知覚認知を鍛える必要はある。即ち空間認知力を高め、思考クロック数を上げる習練をする必要がある。

薄ボンヤリの意識では、直線ひとつでさえ意識されない。

ゆえに身体の動きも意識体を乗せた実体の体と一緒に動くか、意識無く命令されたでくの坊のロボットが動くかでその意味と動きの質は全く異なってくる。

意識により調和した身体が動いてしまう(観念運動)状態と身体に命令して動かすのとは全く別次元の話!

 

体を割る、虚実もなるほどね。

これまでは体を割るというと実際の身体の右側と左側を別々に使う事と理解してきたが、それはあくまでも結果で有り、右側の意識体を動かせば良いだけか。

あるいは影を残すと言うことも出来る③。

また虚実というのは実は虚は実存の身体であり、実は意識体の方か?!