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新年、書けば点描画法で浮き上がる


行く年来る年という言葉もあり、過ぎた一年を忘れる忘年会というのもある。忘れるのでは無く来年に向けての望年会そして新年会もある。

 

本日も日々の時間の流れが流れ、昨日から今日になり、朝を迎え、昼を迎えた。

しかし、今日からは2019年であり、今日は、1月1日、元旦である。

 

過去は過去で、結果であり、過ぎ去った日々である。

しかし、過去からの縁の続きで、母親という存在がいて、その母親が今朝、転居したマンションに初めて来た。

 

昨年暮れに86歳になり、普段勤務している認知症ディケアを利用されている方々も、その位の年齢の方々おられる。

人によりその人間の機能のの発現具合は様々であり、歩行も困難で、食事介助が必要な方々もおられる。

その点、母はまだ一人で新幹線に乗って、最寄りの駅まで自力で来られる。

 

久しぶりに一緒に雑煮を食べ、日本酒も頂いた。ほろ酔い気分で、疲れもあり昼寝をしている。

食事介助の必要もなく、一人で飲み食いは出来るし、話しも通じる。

 

が、歩行に関しては、地に足が付いていない。特に、右足で立って左脚を踏み出す時に、右足首が突っ張り跳ね上げその後身体がコントロールを失い、左側に倒れるのを慌てて左脚で支えているが、支えはするが、それで身体の重心を優しく支えるわけでは無く、またまた跳ね上げ、跳ね返しの繰り返しで歩いて居る。歩行中安定して片脚で立てない状態で、崩れては頑張って立て直して立って、そしてそれから頑張って歩いて居る。

 

足首を屈曲させることが苦手な状態となっており、何かあると足首を伸展硬直させて頑張る癖が付いている。

イスに座る時も、足、股関節が屈曲せず、膝も突っ張ったまま、後ろに倒れるように坐る。

 

食事前に身体をチェックし、手当てをして、本人にこれまでと違った環境を設定し、足首から下腿、下腿から膝、膝から股関節から躯幹へと切れている部分につなぎ重みでそのつながった感覚を本人に返してやると本人が滑らかな動きで返してくる。

 

相手の現状をチェックし、相手の使えるか使えないかの境を、相手の身体の状態とその重みで動くか動かないかのぎりぎりのバランスの場を被動的に設定して、本人の重みによる自律的な動きを待ち、動き出したら動きながらもその場を維持し添い続ける。

 

最初は右足から右半身を整えて、足首の動きを左右比較して貰うと、手当てした右足首の方が軽く滑らかに動き、本人もそれを知覚し、認知出来る様になった。それまでは足裏の感覚も分からないと言う状態であったが、足首の動きに対しても細かく知覚出来る様になり、左足首との違いも知覚可能となった。

 

右の次に左側も手当てして、本人の関節各部の知覚を取り戻し、歩行して貰うと片脚立ちで支えて反対の脚を踏み出すことが出来る様になったが、一々踏ん張って固まってから脚を踏み出している。そこで、スピードシングルで本人の機能を自律的に引き出してやると、風に乗りスーッと歩けるようになり、ほ乳類の歩きを取り戻した。

 

しかし、それで坐ろうとすると足首、膝、股関節伸展硬直し、上半身だけ屈めて、それでその後身体を放り投げて落下して坐って居る。自分の足で自分の身体を支え続けられない。当然、立ち上がる時も力み硬直して無理矢理立ち上がっている。

 

それで体操より海草ということで、身体特に足首と腰回りをゆらゆらと揺れるように遊んでもらった。その後、重みを足裏に落とし続けられるように、頭と尻で前後のバランスを取り、滑らかに屈伸出来る様にミラーニューロンから情報を入れてやったら、身体で重心を足裏から外に出さずに持続して足裏に落とし続けて、坐ったり立ったりが可能となった。

 

確かに日々、生きて死につつある我々は日々の生活の中で、使える部分は益々使い、使わない部分は益々使わなくなることは、我が身を持っても、さらに他の人達のありよう、身体の使い方を見ていても、体感、実感される。

 

これまで「身を介したからだ(身・心)のリハビリ(認知行動変容リハビリ療法)」としてやって来たことの意味が新たなコンセプトで浮かび上がってきた。

 

すなわち、身体を筋肉の深部受容器が働きやすいポジション環境に被動的に保持、支持し、設定しておいて、こちらが意図的に動くのでも無く、本人にも動く事を意図させず、本人は動かさ無くても重みで動く状態を作り、静止している状態からオフスタートで動き出しを誘い、その動きに乗る。最初は自分の身体の重みで無意識レベルの滑らかなこれまでにない微細な動きを引きだし、それを維持し続ける。そして、感覚器を通して知覚出来るように場を設定し続ける。

こちらも力で相手を動かす必要は無い。相手の重み、その状況により切れている部分(周囲の部よりも知覚、認知出来なくなっている部分)に、さらには全体的に、知覚が開けて行けばよいこと。

 

本人の身体のその状況による重みの流し込みと流れで、滑らかな柔らかい動きを待てば良いのに、従来は、本人の自律性に任せられず、待てずについついに、こちらが相手を動かしてしまっていたことが如実に実感された。

 

すなわち、局所の関節一つの話しでは無く、常に全身が必要な時に必要なだけ、つながり、協力協調して働ける状態を維持出来る様な身体のありようを実現するために、感覚を知覚出来るような補助手段の1つがこれまで目指していたリハビリの姿であること。さらにそれは「認知の心理学」からすれば、まだまだ途中までの話しであり、その先があること。結果としてそうなっていたのだろうが、さらにそれを認知から感覚を迎えに行けるようにするだけで、循環トレーニングにもなることが実感された。

 

これまで目指して来たリハビリも、かえってその邪魔をして来た(邪魔していた方が多かった)が、やはり、循トレへの導入の1つとして、相手との身を介したコミュニケーション方法であることが実感された。

臨床動作法から始まり、教育動作を経て、自分なりに認知行動変容リハビリ療法を追求して来たが、意図→努力→動作という仮説では無く、感覚→知覚→認知→行動(態度、動作、行動、思考など)の「認知の心理学」の仮説がやはりしっくり来て、馴染む。

教育動作における基点つくりという概念も決して皮膚、筋肉のレベルの話しでは無い。情報伝達回路を繋げ、繋がった状態で、わずかな信号、情報で大丈夫な身体を取り戻す一手順である。

 

そこでの、今後のリハビリにおける注意点は以下か?!

 

意図させない、意識させない! (思考シフト)

運動には、向かわない!    (運動ゾーンに入らない)

感覚を通して、知覚を育てる。 (知覚を開き、)

知覚を通して、認知を育てる。 (認知ゾーンに向かう)

教えずに、ただ聞く。質問はするが、答えてもらう必要は無い。

本人に、ただ、感じて貰い、知覚して貰い、その結果の認知の変容を受け入れるのみ。

目標はとりあえず、楽に気持ち良くと言うことで、オッケイ。

 

身を任せる、任せられるありようになれば、感覚が開き、知覚しやすくなる。

ほんのわずかでも楽になる成功体験を積んでこそ、それ以前の自分の(楽で無い)状態も、知覚出来、認知出来る様になる。

あくまでも、本人の感覚任せ、知覚任せ、認知任せ。

ただ、知覚出来やすい場を提供し、待ち、受け入れる。相手の認知の変容を認知出来るか? がこちらの課題。

 

なるほど、心身医学における心理療法の原則、保証、支持、受容だが、何を保証し、何を支持し、何を受容するかが異なるのが、「認知の心理学」の「認知の心理学」たる所以だろうと思えた。

世間一般とは、異なる。一般的には、受容、支持。保証と言われるが、特に私自身昔から保証が?であった。

 

人間の無限の機能、能力を保証し、そのほんのちょっとの小さな機能を引き出し成功体験を積む場を設定し、支持し、本人の感覚、知覚、認知の変容を待ち、受け入れ(受容し)、楽しむ。

うーむ。なるほど、そういうことか。

 

おお、つながるつながる。これまでばらばらの(学術)用語、言葉、概念が自然につながりその意味が明確にしっかりしっくりしてくる。

 

確かに待てば海路の日和ありだ!

 

考えるより、書け! 書けばつながり、浮かび上がってくる。意味が明確になってくる。

 

Don't think !  Write !  The word , the concept become clear !